bbz

松本人志論

_
previous | next | edit
1: Sat Jul 3 02:46:35 2010
日本の歴史上の漫才師あるいはお笑い芸人のなかでもっとも偉大な存在といってもいい男、松本人志。
そのおもしろさ、お笑い界はもちろん日本の社会に与えた影響は誰もが認めるであろう。
ピークを過ぎたという話も聞くが、彼はもう二度と衰えることのない境地にまで達した男の一人である。
誰もが「まっちゃん」とか「まっつん」とか「松本さん」と、親しみをこめて呼ぶときの
その表情にはなんとも言えない柔和な、人を落ち着かせるものがある。
2: Sat Jul 3 02:48:56 2010
しかし、一体彼の偉大さはなんなのかを説明することは難しい。「やっぱまっつんおもろいわ」「まっちゃん天才だわwww」と言うしかない。そして、彼の面白さを学者や評論家に分析させないこと、とにかく彼の話を聞いて笑っていられればいい、と思わせていることも、彼の偉大さの一つである。
3: Sat Jul 3 02:52:37 2010
しかしこれほどの境地に達してくると、彼の偉大さを説明してみたくなる。「松本人志の何がすごかったのか」ということを。
そして私は先ほど数学Aの教科書で排他事象などについて書かれているところを読んでいるときに、それがわかったのだ。

松本人志の偉大さ、彼がこれほどまでの支持を獲得した理由は、彼がまれにみる常識者であったことである。
4: Sat Jul 3 02:59:54 2010
彼が作ったもしくは流行らせたといわれている言葉がいくつかある。「逆ギレ」「空気読め」「スベる」「サブい」「ブルーになる」など。これらは皆、確固たる常識が存在していないと意味をもたないことばである。

その二人の関係と二人の行動から誰が怒るべきなのかを理解しているから、そうでない怒り方をしたときにそれを「逆ギレ」と言える。
「ブルーになる」という言葉は、松本以前にも使用されていたが、その意味はもっと曖昧で心情的なものであった。しかし松本の使い方はいままでよりももっと倫理的な意味が強い。そう、今挙げた言葉の意味には、倫理的なものが強く含まれているのである。

彼についてはその感覚とかセンスが賞賛されてきた。センスのある芸人、彼を理解するにはセンスが必要、などと。
しかし、彼がもっていたのはセンスではなく、倫理観、常識性だった。センスはセンスでも、コモンセンスであったのだ。
5: Sat Jul 3 03:15:51 2010
常識性は松本だけでなく、大衆に受け入れられた芸人達は多かれ少なかれ皆が持っていたものである。それがなければ笑いは生まれない。
テレビが登場してさらにそれがほとんど一人一台ずつ占有できるのに近い状態になり、人がテレビに対して求めるものは非常にシビアになった。それはもはやお茶の間で食事時に見るものではなくなった。人々の生活に公的なものと私的なものがありそれは典型的には仕事あるいは学業と家庭であったが、テレビはその私的なものの中にさらにもう一段階極私的な世界を作った。

テレビ以前のさまざまな媒体、映画、小説、漫画などには、私的さが足りなかった。むしろそれは家庭にもどって接するときには仕事よりも公的な存在だった。しかしテレビにはそのような高尚さ、近寄りがたさはなかった。テレビは自分自身の生活ではないものの中で、もっとも身近で卑小な、気楽な世界を見せてくれる媒体であったのである。

だから人々はテレビを自分の部屋で一人でみるようになった。自分とテレビだけが存在している。
そういうときにテレビに求めるものはなんだろうか。それは奇抜さでも、その場しのぎのバカ騒ぎでも、姿かたちの美しい男女でもない。
人々の孤独をいやしさらにそれが自分の私生活のなかのもっとも私的な場所と時間に享受されるものでなければならない。

そして松本人志がその要求にもっとも合致したお笑い芸人だった。
そのことは誰もがわかっている。
しかし、どうして彼が受け入れられたのかは理解されていなかった。

多くの人は、彼が特異であること、いままでの芸人たちにはない破天荒で新しい感覚を持っていたとか、
既存のお笑いの枠を超えるあたらしい笑いを作り出したと思われているが、彼が他の芸人と違っていたのは、誰よりもオーソドックスな思考をしていたことである。
6: Sat Jul 3 03:20:17 2010
見過ごしがちなことであるが「ボケ」という概念を一般の生活にまで広めたのも松本人志である。
ボケという言葉や概念自体は古くからあったものであるが、それを人々が日常会話にまで使うようにさせたのは間違いなく松本である。

松本人志とは「ボケ論を確立した男」と言ってもいい。
7: Sat Jul 3 03:21:55 2010
松本以前のお笑いでは、「ボケ」というのは単なる滑稽なこと、ばかげたこと、非常識なこと、反社会的なことだとされていた。
芸人達はそうではなかったかもしれないが、少なくとも客はそうとらえていた。本当はそうではないにしても、そういうものだと思い込みながら、萩本欽一とかドリフターズとかツービートなどを見ていたのである。
8: Sat Jul 3 03:24:34 2010
松本はそのボケを、演者が意識して渾身のおもいでひねり出しているものである、という事を体現した。
9: Sat Jul 3 03:26:44 2010
松本以前でも、ボケ=おもしろい人 であった。たとえば志村けんがそうであった。
しかし志村けんのボケについて、「彼は本当はアタマがよくて繊細なんだよ」とは誰も言わなかった。彼は本当にバカでスケベでろくでなしで、自分のやりたいことをやって言いたいことを言っていただけで、それが痛快でおもしろいのだと、思われていた。
10: Sat Jul 3 03:29:10 2010
ボケは本当はマジメで暗い人だけどみんなを楽しませるためにわざと滑稽な演技をしているピエロのようなものだ、
というのは常識的なコメディアン像である。その考えでは、その事実は隠されていなければならない。それを明かしてしまってはもはやピエロは悲しいものになってしまうからだ。

事実、現在ピエロはほとんど悲劇的な存在になっていて、ピエロを見てケラケラ笑うのは子供だけである。
11: Sat Jul 3 03:30:50 2010
松本がしたことは、そのピエロの秘密を暴露したことと似ている。しかし、彼は秘密を暴露しながらも笑わせ続けることに成功した。それはなぜだろう?
12: Sat Jul 3 03:34:33 2010
ここで、彼が類稀なる常識者であった、という話に戻る。

彼以前のボケは、それが意図的なものであったにせよ、非常識な態度の表出だった。
しかし、松本のボケは、常識を見せた。もしくは、非常識を皮肉る態度を見せた。

笑いの本質であるボケが、芸人自体にも理解されなくなりかけ、本当にただの非常識な行動や言動をする笑いが蔓延しかけた。
そこに現れたのが松本であった。
13: Sat Jul 3 03:37:32 2010
彼のボケが今までとは違うものであるとは若者達にはすぐにわかった。
しかしそれが何であるのかは理解されなかった。その必要もなかった。せいぜいが、知的であるとかするどい感覚であるとかいう言われ方であった。

倫理や常識など、むしろダウンタウンが破壊したという者の方が多かった。私もそう思っていたし、
初期のダウンタウンにはそういうところがあって、本人も意識して常識や倫理をけちらすような思いがあったかもしれない。
しかし、それはダウンタウンの、松本人志の本質ではない。
14: Sat Jul 3 03:45:43 2010
彼の出演していた有名な番組に、15分くらいのフリートークのコーナーがあった。これこそが彼の芸の真骨頂であり、彼にしかできないものであった。そしてそこで彼はボケた。ボケることで視聴者に見せたものは、常識であった。彼はフリートークでほとんど怒っていた。あれはもはや説教であった。対話方式による常識の追求であった。

もうその番組でフリートークをやることはなくなった。
彼はテレビでは対話をすることも減り、MCと呼ばれる司会者のような立場にたつことが増えた。
そして彼が今していることは、彼の後輩達に対話させることによる、常識の追求なのである。
15: Thu Mar 31 23:40:37 2011
山崎邦正は、デフォルメされた松本人志である。
ヘタレ、スベリ芸、ビビリ、それらはすべて松本人志が持っているもので、
山崎はそれら松本の欠点をすべて負って誇張された存在なのである。
16: Sun Nov 6 08:43:23 2011
11/5、NHK BSプレミアムで「松本人志大文化祭」という番組があって、ほぼ全部見た。私はダウンタウンが大好きで、彼らが出る番組はほとんど見てきた。そして今回、彼が撮った最初の映画である「大日本人」も放送された。今回の「文化祭」で、私が一番見たかったものは「大日本人」であった。私はもちろん彼が発表した3本の作品は全部映画館で観ている。私は3本とも楽しんだが、映画監督としての松本人志の評価は今ひとつのようである。

「大日本人」は、その映像を思い出しただけで楽しくなるというか、ワクワクするものがある。この作品は彼の感覚が素直に表現されていた。だが、2作目以降はどうも考えすぎと言うか狙いすぎというか、感覚でなく考えて作ったという印象がある。考えすぎというのは、「大日本人」にもないことはない。テレビのバラエティ、マンガ、ゲーム的な構成をひきずっていて、映画として見るには興ざめなところがある。

私はおもしろいものを見たいのであり、いい映画を見たいのではないが、でも、映画である必要がないものを映画にすることはやはりよくない。松本氏は、大日本人を作るときに「映画を撮りたい」という思いが強すぎたのではないだろうか。なにか表現したいものがあって、それには映画がふさわしかったから映画を撮った、というのではなく、「お笑いで成功したから映画もやってみたい、映画に挑戦したい」という動機で撮ったのではないか。

「それはすばらしい事じゃないか、それの何が悪いのか?」と言われるかもしれないが、私はその動機は間違っていると思う。よく比較される北野監督の作品も私は好きで全部見ているが、北野氏は映画では映画でしかできないものを撮っている。松本氏は、テレビでやったことを映画にアレンジしたようなところがある。

「さや侍」は、3本の中で一番映画らしかった。が、松本らしさがなかった。評価が今ひとつだった2作品の反省からかわかりやすいストーリーや感動を前面に出す映画にして、松本氏本人も「好評だった」と言っていた。わたしは映画館で「さや侍」を見て楽しんだことは楽しんだが、何か居心地の悪さというか気持ち悪さを感じた。その前の2作品は映画館で3回ずつ見たのだが、「さや侍」は1回しか見なかった。

松本氏は「オチ」にこだわり過ぎではないだろうか?「笑い」というのはオチで生まれるものではない。漫才のオチも、落語のさげも、単に形式的に終わらせるだけで、笑いのピークはその前にある。だからオチやサゲはちょっと棒読み風にさらっとやるのが普通である。ときどき、どんでん返しのような、凝ったオチの漫才を見ることがあるが、そういう漫才はその場では沸いても後になるとあまり面白くなく、また見たいとも思わない。

私は漫才とかコントも好きで、5分前後の短い「ネタ」を動画としてPCに保存して何度も繰り返し見ているものが何本かあるが、すべて「オチ」などたいしたものではない。というか、どれも「オチがイマイチだな」と感じるものばかりだ。しかし、最近思い始めたのは、傑作なのにオチが弱いのではなく、オチが強すぎないから傑作なのではないか、ということである。オチとか、起承転結などというものは形式にすぎず、ある程度のカタチがあればよいのであって、形式ばかりにこだわって、その複雑さとか意外さが前面にだされると、興ざめするのである。

おもしろいネタというのは大体その状況とか登場人物の個性(いわゆるキャラ)がおもしろい。雰囲気とか空気といってもよい。それが確立されれば、何を言っても面白くなる。形式はそういう世界を築くための手段にすぎず、形式=世界なのではない。おそらく、松本氏はそれをわかっていて、それをやってきた人だ。しかし、映画ではそれに失敗し、形式におぼれている。それは、やっぱり本業ではないからだ。テレビや舞台で成功したことを映画でやろうとしているからだ。

北野氏が映画を撮り出した頃はあまりテレビで面白くなくなった頃だった。トーク番組とか司会者とか、自身もあまりテレビの仕事に情熱を感じなくなっていたのではないだろうか。しかし松本氏はいまだにテレビ界で生き生きと活動していて全盛期と言ってもいい。映画なんかやる必要がない。今のところ彼が表現したいことに最も適しているのはテレビなのだ。そしてそれでいいのである。
17: Sun Apr 3 12:07:15 2016
復活
^
previous | next | edit