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Karl Heinrich Marx

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1: Fri Jul 30 03:13:28 2010
この人も、研究対象とした。ずいぶん前から、この人についていろいろ調べているのだが、いっこうに素晴らしさもすごさもわからない。だが、それはおそらく、「・・・について」「・・・とは」というものばかり読んできたからだろう。
こないだ読んだ価値、貨幣なんとかというのは、けっこう面白かったから。
2: Fri Jul 30 03:17:18 2010
だが彼の文章、といっても翻訳だが、は、読みづらい。それは、難しいというか、スカスカな感じがするのだ。なんというのだろう、突飛というのか、唐突というのか。

だがどうやらそれは彼の魅力のひとつのようである。ある人の本に、そう書いてあった。論理的に話をすすめておきながら、突然飛躍するようなところがあるのだという。

だが、やっぱり彼には魅力を感じない。「政治、経済、社会を総合的に論じる」だの、「社会を変革する」だのというのが、安っぽくきこえてしょうがない。
3: Fri Jul 30 03:21:08 2010
先ほどの本にあったのが、「人はその行動によって評価される」ということが素晴らしい、と書いてあった。いくらやさしく高潔な人格の持ち主であっても、その人が何もしなければ意味はなく、というか高潔であるということすらできず、たとえば人に席をゆずったり施しをしたらその人は人格者と評される、というのである。

これは、素晴らしいという人もいるだろうし、そこまでいかなくても、まあそうだろうな、と同意する人がほとんどであろう。いや、それはおかしい、と異を唱える人はそんなにいないはずだ。このことを誰が言ったのかを伏せれば。

誰が言ったかを教えてしまったら、8割くらいの人が反発するだろう。
私もそうである。彼のいった言葉であるから、最初から警戒しているのだ。
4: Fri Jul 30 03:22:50 2010
でも、彼が言ったからではなく、やっぱり行動で評価してしまうのは危険なことである。
今夜はこの事を語って寝よう。
5: Fri Jul 30 03:25:25 2010
簡単にいうと、善行に見える行為にも動機と目的があって、それが利己的だったら、やはり善行にはならないのだ。
一番わかりやすいのが、先ほども例としてあげた、席をゆずるという行為である。これを、お年寄りをいたわるからではなく、自分が優しい人だと思われたいがためにゆずったら、それはやはり卑しい、醜い行為なのである。
6: Fri Jul 30 03:34:17 2010
どんな動機であろうが、お年寄りが楽をすることに変わりはない、と言うのが彼の言い分であり、それが唯物論なのである。
そのような偽善によって席を譲られたときは、お年よりはなぜか休まらないものだ。もしそういう偽善者であれば、お年寄りが座った後に堂々とその近くに立ってふんぞり返っているであろう。それを見たお年よりはどう感じるだろうか。偽善はかならず行動として現れる。その人の心が行動となって表れる。行動さえ正しければ心がどうでもいいというのは、ありえないのだ。

このことは、いくら口先でいいことを言っても実行しなければ無意味だ、というのならまあ同意できる。
しかし、彼が言おうとしたのはそんなことではない。彼はそんな単純な単なる人情家ではない。
そこがクセモノなのである。

彼のような言い方をしたときに人が感じることは、「自分の心なんかどうでもいいんだ。とりあえず人にモノをあげたりニコニコしていればいいんだ」というものである。

善は実行しなければ意味がないのだ、と考えるような人は、最初から彼の言うようなことに同意しないだろう。
そのような人は、善行が心からなさねばできるものではないということを知っているはずだからだ。

唯物論になびいてしまう人は、そのような心と行動の関係について悩んだことのない人だ。
善行を行うのが辛いのと同様、たやすく悪事をおこなってしまう自分に悩み、それをなんとかしたいと悩んだことのない人、もしくはそんなことは無理だとあきらめたい人だ。

だから悪魔のささやきなのだ。
7: Sat Jul 31 00:07:01 2010
マルクスってなんだろうと、ちょっとマジメに考えるときに思うのが、多分それはすでに自分のなかにあり、自分の行動や思考のなかにすでにマルクス的なものがあるだろう、という予想だ。たとえば、xx化という言葉。平均化、純化、平滑化、陳腐化、透明化、抽象化など。もっと言えば、漢語。わたしの書く文章は白っぽい。ひらがなが多い。見た目、バカっぽい。でも、読んでみると非常にリズミカルで、流れるような美しさがある。これは、日本語ならではだ。
8: Sat Jul 31 00:08:44 2010
私は、こんなことを考えた。子供の頃によく本を読んだ人は、ひらがな言葉が巧みになる。高校生くらいになってから読んだ人は、漢字を多用する。もっとオトナになってから読んだ人は、カタカナを多用する、のではないかと。
9: Sat Jul 31 00:11:01 2010
漢字とカタカナについては、順序は逆かも知れない。だが、子供の頃に絵本や童話を読んだ人は、ひらがな言葉が巧みになるのは間違いないだろう。そして、それはやまとことばが巧みであることを意味し、それは、明治時代に人工的に翻訳されて導入された言葉に対する感覚的な違和感につながる。そういえば、なんとか的という語も、今でこそ普通に使っているが、物心付いたころはなんだか抵抗があったものだ。
10: Sat Jul 31 00:11:56 2010
カタカナ好きは、翻訳文学をよく読んだ人がなるのだろうか。もしくは漫画だろうか。テレビだろうか。
11: Sat Jul 31 00:15:49 2010
私はカタカナはなるべく使わないようにしている。英語をそのまま書く。twitterとか、googleとかでさえ。
人名やバンドの名前なども。「セックスピストルズ」とは絶対に書かない。「ディラン」も無いな。

ただし、「オトナ」とか、「ヘンタイ」とかのカタカナは使う。
でも、「カクニン」とか「ゼッタイ」とかはやらない。そういえば、そういう風に漢語をカタカナで書く人減ったな・・・
12: Sat Jul 31 00:27:16 2010
よく、「日本語には抽象概念をあらわす言葉がない」といわれる。日本の思想にも書いてあった。そして、その「抽象」「概念」という言葉自体がすでに漢語の造語であろう。

「抽象」という言葉を日本語で、やまとことばにするとなんだろう?思いつかない。「概念」もしかり。

それは、日本語(以後、「日本語」とはやまとことばの意)には、「物質」という概念がないからだ。「もの」というのは物体という、あるものの物理的な外面的な性質を意味するのではなく、外面も内面もひとつに統一されているとして、把握するからだ。
13: Sat Jul 31 00:31:06 2010
日本語には、抽象も具体もないのである。その「もの」はその「もの」であり、固体とか生物とかいう区別をしないのである。
それでは日本に科学はないかといえば、日本は外国語を輸入し、外国語を使って科学を使うことを覚えた。
科学とは、外国の文化である。日本にはない。だから、科学するには外国語が必要である。われわれは日本語で科学していると思っているかもしれないが、それは日本語に訳された外国語であり、われわれは日本語で科学しているのではない。日本語では科学はできない。
14: Sat Jul 31 00:34:56 2010
科学というのは分析であり、分離であり、分割であり、区別である。複雑な運動を、単純な直線運動の集合と考える。
雑多に見える現象の根底には基本的な原理や法則があって、それにしたがって単純な動作をするものが多数、階層をつくるなどして組み合わされて現象として実現しているとみなす。

でも、斜めに動いている物体はもちろん、縦の動きと横の動きをしてなどおらず、それはナナメに動いているのである。
それは当然のことだ。
15: Sat Jul 31 00:37:26 2010
しかし、あまりにわれわれは科学的な考え方に慣れてしまい、果ては「精神と肉体は一心同体である」などという本末転倒なことを言うに至った。もともとひとつのものを勝手に分けて考えたのはテメェのほうなのに、まるで自分が考え付いたかのように人間は人間という一個の存在であって肉体でも精神でもない、などと言って悦に入るようになってしまったのだ。
16: Sat Jul 31 00:43:34 2010
ちょっと回りくどかったかもしれないけど、三位一体なんていうのが日本人にピンとこないのは、それはもともと一体であるものを勝手にわけて考えていた人たちが結局その本質はひとつの同じものである、ということに気付いたという経緯がわからないからだ。
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