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キリストの刑死は壮大な皮肉だ

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1: 2008/01/29(Tue) 21:15
十字架
2: 2008/01/30(Wed) 00:10
イエスはもちろん、死ぬために生まれたのではなかった。でも、彼が自分の人生を貫くためには、十字架につくしかなかった。引っ込みがつかなかった。わたしを信じるものは永遠に生きる、というのは、涙をながし鼻水をたらし、半狂乱で叫んだ言葉なのである。
3: 08/11/18(Tue) 21:04
「この人を見よ」というタイトルのブログがあった。
これはニーチェの著作のタイトルでもあり、いろんなときに引用される言葉であるが、
本当は、「見よ、この人だ」と言う方が正しい。
どっちでも見るんだから同じじゃないか、というかもしれないが、
なんせ「この人」とはキリストだからね。
これはどういう状況で言った言葉かというと、
イエスは今で言うインチキ霊能者みたいに騒がれて、
ユダヤ教の聖職者を中心に猛烈なバッシングが起きる。

そのときユダヤという国はローマ帝国の属国であり、
ユダヤの総督であったのがピラトである。
ピラトはユダヤ人ではないからイエスの件も一地方の宗教問題であって、
どうでもいい話である。
別に彼はイエスを神の子だと認めていたわけではなく、
当事者ではないので「罪があるとは認められない」と言っただけである。
しかしユダヤ人達が怒り狂っていたために、じゃあお前らが裁け、
とイエスを引き渡し(それも変な話だが)、その時にピラトが言ったのが、
「見よ、この人だ(ecce home)」なのである。

つまり、「この人は立派だから(あるいは大罪人だから)よく見なさい」という意味ではなく、
「ほら見てごらん、(あなたがたが神を惑わす大罪人として死刑にしようとしているのは)この人ですよ」
という意味である。

これが、「見よ、これが神の子だ」
という風に言ったとも解釈できかねないということで有名になったのだと思う。
4: 08/11/19(Wed) 21:54
ニーチェの名前を出して久しぶりに彼のことを思い出した。わたしは若い頃、彼の著作をいくつか読んだ。ツァラトゥストラ、善悪の彼岸、この人を見よ、悲劇の誕生など。正直言ってよくわからず、共感しないどころか反感すら覚える。なるほどとも思わない。

それはいいのだが、彼は「発狂した」ということになっている。多分「発狂」「狂う」という言葉はテレビなどでは使えないはずだ。「認知症」「脳に障害がある」「精神疾患」などという。しかし、ニーチェについては「発狂」ということになっている。あらためて、「発狂って何だよ」と思って検索してみると、発狂したのがいつかははっきりしており、1889年1月3日にトリノ市の路上で昏倒した後らしい。具体的にどうなったのかはよくわからないが、自分がディオニュソスだとか仏陀だとかわけのわからないことを言い出して他人と意思の疎通すら出来ない状態で11年くらい過ごしたらしい。梅毒、脳挫傷などが原因だという説があるがはっきりしないらしい。
5: 09/01/20(Tue) 23:41
久しぶりに聖書を読んだ。マタイの福音書を。
イエスがいとも簡単に中風や盲人やらい病を治し、信仰さえあれば山さえ動く、とまで言うのを読んで、
これは一体なんだ?と改めて思う。
要は、気の持ちようか?
自分で自分にかけている呪いを解くということか?
・・・でも、やっぱりそういうことじゃない、何かのたとえではないのだろう・・・。
6: Fri Mar 25 12:36:51 2011
今朝いつものように信号待ちをしていた。
まだ赤だったが何人かの人が渡って行った。
私はそこの信号が後どれくらいで青になるかがわかっていた。
あと15秒くらいだった。
15秒だから、と思ったが、何かを待っているときというのは時間が進むのが遅いものだ。

そしてそのとき改めて思ったのは、時間の進み方というのは人の意識によって変わるということだ。
信号を渡り終えて駅までは1、2分と、信号待ちより長い時間がかかるのに、
待っているときのように時間がすすむのが遅いとは思わず、
遅刻しそうなときなどはもっとゆっくり進めと思うほどだ。

それを考えたときに、もし時間を止めたいなら、意識の持ち方によって、
完全にとめることはできないとしても、遅くすることはできるのではないかと考えた。
何かを待っている時に遅く感じる。そしてその待つものは今すぐにでもやってくるかもしれない。
そして、それが来てしまってはいけない。さあ、何を待てばいいのか。

そこまで考えたときに私はキリスト教はもしかして飛び去るように過ぎ行く時間を止めようとするものなのかと考えた。
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