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お墓参り

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1: 08/03/16(Sun) 18:49
私はお墓参りが好きである。墓場が好きなのである。墓場では人はみな柔和で落ち着いている。石、花、線香、土・・・普段触れることのないものである。
2: 08/03/16(Sun) 19:00
どうして墓は石で建てるのか。それは、永く残るからである。金属やプラスチックではダメなのである。私の父の家の墓は大正に建てられたものであるが、その墓地にはその前に立てられた墓碑が一緒においてある。それはたぶん明治にできたものではないか。
3: 08/03/21(Fri) 21:51
父の墓には正面に「南無阿弥陀仏」と彫ってある。○○家之墓などとは書いていない。私もしらなかったのだが、実はこれは浄土真宗では正式な墓の作り方なのである。墓地に行くと、ほとんどの墓が○○家之墓となっている。最近は「心」「和」「愛」なんていう漢字一字のものも多い。そういう墓は石の形も変わっている。墓を建てるにあたって私は何冊か本を買ったりインターネットなどで調べた。結論を言うと○○家之墓と刻むのは、間違っている。なぜなのか、どうすべきなのかは調べていただきたい。私が言いたいのは、とにかく世間は宗教的なものから離れているということである。葬式も埋葬も、宗教性が失われて、単なる事務手続きになっている。わたしが気に食わないのは、葬式も埋葬もやることはやるのに、宗教性を排除して簡単に安上がりに済ませてお茶を濁そうとする傾向である。先ほど言った漢字一字の墓というのは、子供に男子がいない家に多いらしい。これから増えていくだろう。さらに、墓という風習自体も廃れていくかもしれない。
4: 08/11/11(Tue) 01:06
父が死んで、葬儀社の人と葬式をどうするかを、家族と親戚と集まって話したときに、宗派は何だ、という話になった。
父は末弟なのだが、長男の叔父も、宗派をはっきり知らなかった。父の妹であり末っ子の叔母が、浄土真宗だと言い出して、最終的に浄土真宗のお坊さんを呼んで葬式をし、墓にも南無阿弥陀仏と刻むことになった。
私は仏教の宗派についていろいろ調べたが、浄土真宗というのは非常に自由ななんでもありの宗派で、キリスト教のプロテスタントのように、信仰のみを重視する宗派であることがわかった。プロテスタントが、信仰を告白するだけで救われるように、南無阿弥陀仏と唱えることによって極楽へいけることが約束されるのである。
5: 08/11/11(Tue) 01:10
しかし、正直に言って、わたしは浄土真宗があまりに簡単で、虫のよすぎる信仰だと思った。
ナンマンダブで救われたら苦労しねえよ、と。善人なをもて・・・の話も、眉唾だと思った。

私はもともと仏教なんか信じていない。仏教なんかとっくに終わっていて今では単なる社会のシステムとして形式的に残っているだけだと。

6: 08/11/11(Tue) 01:17
父が死んで仏壇を買った。最初は私も毎日線香をあげていたが、だんだんその回数は減っていき、最近では月に1回もあげればいいほうである。
父の死はショックではあったが、わたしはあまり父が好きではなかったし、父も私のことは好きではなかったと思う。
入院から死までは、つらい日々ではあったが、悲しいとかかわいそうとかいう感情はあまりなかった。冷たいようだが、それまでほとんど会話もせず食事も一緒にせず、同居人のような関係だったのに、病気になったからといって急に親子の愛情がわくわけもない。

父は普段はクールでおおらかなように振舞っていたが、いざ病気になると小心なところがあらわになり、家族のわれわれにもだんだん言うことがおかしくなっていって、とても惨めな気持ちになった。
7: 08/11/11(Tue) 01:21
それは私だけでなく、母、兄、妹、親戚の叔父・叔母、いとこ、会社の同僚、部下、大学の同期の友人など、みんな、そんなに悲痛なおももちではなく、くるべきときがきたというか、まあ人間だれでも死ぬんだし、と、なんと言うことはない感じにやり過ごしていたように見えた。

だいたい、入院から通夜葬儀など、事務的なことがいろいろあって、悲しむ暇などはなかった。そして時が経ち悲しむ暇ができても、悲しくない。
やっぱり、私と父の間の親子の情は、とても薄かったのだと思う。
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