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西郷隆盛と藩

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1: Fri Jan 4 10:52:09 2013
西郷隆盛とは何物か。肖像画を見せれば小学生でも名前が出てくるほどの有名人だ。しかし、一体彼は何物だったのか。彼は何をしたのか。彼は日本史のなかでどのような意味を持つ人物なのか。
2: Fri Jan 4 10:59:21 2013
西郷隆盛は切腹して死んでいる・・・と思ったが敗戦が目に見えて自ら死を選んではいるものの腹は切っておらず首をはねられたそうだ。その破れた戦とは西南戦争である。それくらいは私も知っている。では、西南戦争とはどんな戦争か?誰と誰が戦ったのか?
3: Fri Jan 4 11:04:53 2013
山川出版の詳説日本史(高校の教科書)によると、「各地の士族反乱が鎮圧されるなか、地租の軽減で農民の不満がいくぶん緩和された1877(明治10)年には、下野・帰郷していた西郷隆盛を首領として、私学校生らの鹿児島士族を中心とした最大規模の士族反乱が発生した。九州各地の不平士族がこれに呼応したが、政府は約半年をついやしてすべて鎮圧した(西南戦争)。これを最後に、不平士族による反乱はおさまった。」とある。ここだけ読むと西郷はただの悪賊のようだが、一般に西郷隆盛は偉人とされ、善人のイメージがある。一体彼をはじめとする「士族の不平」とはなんだったのか?
4: Fri Jan 4 11:11:37 2013
「下野」というのは、「明治六年の政変」のことを指す。このときに西郷は下野している。「戊辰戦争に際して政府軍に加わって戦った士族のなかには、彼らの主張が新政府に反映されないことに不平をいだく者が少なくなかった。1873(明治6)年の征韓論は、これらの不平士族に支えられたものであった。征韓論が否決されると西郷隆盛・板垣退助・江藤新平・副島種臣らの征韓派参議はいっせいに辞職し(明治六年の政変)、翌1874(明治7)年から、これら士族の不満を背景に政府批判の運動をはじめた。」

「征韓論」というキーワードが出てくる。そして、西郷らは戊辰戦争では政府軍であった。ただ、彼らの行動原理とされているのはここでも「不平」である。やはり悪賊扱いである。征韓論はなぜ否決されたのか。そして西郷らが征韓論を唱えた根拠はなんだったのか。
5: Fri Jan 4 11:15:52 2013
とりあえず征韓論についてはおいておいて、戊辰戦争とはなんだったのか。誰と誰が戦ったのか。
6: Fri Jan 4 11:18:47 2013
「徳川慶喜を擁する旧幕府側は、明治元年1月、大阪城から京都に進撃したが、鳥羽・伏見の戦いで新政府軍に敗れ、慶喜は江戸に逃れた。新政府はただちに、慶喜を朝敵として追討する東征軍を発したが、慶喜の命を受けた勝海舟と東征軍参謀西郷隆盛の交渉により、同年4月に江戸城が無血開城された。」
7: Fri Jan 4 11:21:05 2013
「さらに東征軍は、奥羽列藩同盟を結成した東北諸藩の抵抗を打ち破り、9月にはその中心とみられた会津若松城を攻め落とした。翌明治2年5月には、箱館の五稜郭に立てこもっていた旧幕府海軍の榎本武揚らの軍も降伏したので、国内は新政府によってほぼ統一された。1年半近くにわたったこれらの内戦を戊辰戦争という。」
8: Fri Jan 4 11:25:14 2013
「はいはい、江戸幕府と新政府の戦争ですね、はいはい」と終わってしまってはいけない。明治維新とはクーデターだったのか?大政奉還によって、政権を天皇に返したのではなかったのか?どうして戦争になってしまったのか?慶喜は最後戦死したのか?
9: Fri Jan 4 11:33:18 2013
江戸幕府は戊辰戦争の前に終わっていたのだ。そして、幕府の終焉と新政府の樹立は、平和裏になされている。戦争になったのは明治になってからだ。

「さらに同日夜の三職による小御所会議では、徳川慶喜に内大臣の辞退と朝廷への領地の一部返上を命じる処分が決定されたため、反発した慶喜は京都から大阪城に引きあげ、新政府と軍事的に対立することになった。」


戊辰戦争も、西南戦争も、内乱、しかも事が決まった後の「反発」や「不平」によるものである。

そして慶喜は「降伏」した。そもそもが「反発」であるから、命をかけるほどのものではなかったのか。西郷は「不平」のために死んだが。
10: Fri Jan 4 11:45:21 2013
ここまで来ると、「尊皇攘夷」「開国」などの劇的な、みんなの好きな「幕末」につながるのだが、私は「幕末」「明治維新」といったものがいまひとつよくわからない。

大まかには、アメリカによって開国を強いられ、当然国内ではそれに対する反発が起こるが軍事力の差が明白なのでしぶしぶ開国に至ったと理解している。

そして、「開国」と「倒幕」をセットのように考えているのだが、なぜ開国したら幕府が倒れたのか?江戸幕府が存続したまま開国するという道はなかったのだろうか。
11: Fri Jan 4 11:54:03 2013
なぜこんなことを言い出したのかというと、私は江戸時代の「藩」というものが、最近話題になっている「道州制」のようなものだったのではないかと思ったからだ。幕末の藩は、「同盟」したり「戦争」したりさえしている。これは現在の都道府県ではありえないことである。当時の藩は明らかに非常に強い独立性を持っていたのだ。

そして、私には「明治維新とは本当にすばらしいことだったのか」「江戸幕府とは、滅びるべき後進的な制度だったのか」という疑問も持っている。

大政奉還をして、江戸幕府を多少改革する必要はあったとしても、そのまま体制を維持したらどうなっていただろうか?
もしかしてそうしていたら、今一部の人が目指している「道州制」が19世紀中に実現していたのではないか?
12: Fri Jan 4 11:56:19 2013
アメリカ人は日本をどう見ていたのだろうか?ペリーは、開国をせまりはしたが、その後幕府が倒れてしまうのを見たときに、「おいおい、何もそこまでしなくてもよかったのに・・・」とあきれたりしなかっただろうか?
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